ディエンビエンフー(西島大介/角川書店)

1965年、ベトナム。従軍カメラマンとしてサイゴンを訪れた日系アメリカ人ヒカル・ミナミは、単独で米軍キャンプを襲撃したベトナム人の少女と遭遇し、その美しくも勇ましい姿に心を奪われる。


大して勉強しなかったものでも意外と記憶には残っているものです。このタイトルを見たとき、僕は世界史の授業で習った「ディエンビエンフーの戦い」のことを思い出していました。この作品は、そのディエンビエンフーの戦いから11年後のサイゴンよりスタートします。


絵柄はかわいらしく、ところどころにユーモアが挿しいれられてはいますが、作品の中核にあるのは極限状態に置かれた人間から滲み出てくる狂気です。人の命はどこまでも軽く、強者は弱者をいいように扱い、絶え間なく死が繰り返される世界の只中をヒカルは生きていきます。
ディエンビエンフー」は、戦争に対するメッセージを前面に押し出すことはしていません。主人公のヒカルからして戦争について何かを語ることはなく、ひたすら一人の少女に想いを馳せて戦場を流れていくのです。
戦争物としては、特にWW2以降の最悪の侵略戦争の一つに数えられるベトナム戦争を扱うものとしては些か規格外なスタンスです。どうしてなのか。


多くの場合、本当の戦争の話というものは信じてもらえっこない。
すんなりと信じられるような話を聞いたら、眉に唾をつけたほうがいい。
真実というのはそういうものなのだ。
往々にして馬鹿みたいな話が真実であり、まともな話が嘘である。
何故なら本当に信じがたいほどの狂気を信じさせるにはまともな話というものが必要であるからだ。
ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」(村上春樹訳)より
「『馬鹿みたいな嘘』ばかりの話を描いてみよう。もしかしたら、意外とまともな戦争の話になるかもしれない」あとがきの中で西島氏はこのように書いています。オブライエン氏の言葉に対する西島氏の回答が、この「ディエンビエンフー」なのでしょう。


人によっては、この作品に激しい不快感を覚えるかも知れません。ベトナム戦争というモチーフが非常に重く、巨大であるからこそ、こういった切り口が戦争に対する無理解・不遜さと受け取られるかも知れない、そのようにも思うのです。そういうことからお勧めとはいいにくいのですが、読後に考えるべきものを得られる作品ではあると思います。戦争に対しても、そして西島氏の作風に対しても。

ディエンビエンフー (100%コミックス)

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